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2011年05月07日 10:30
5月の空に飛べ、ゲイラカイト!
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ゲイラカイト(gayla-kite)を知っていますか?
男の子なら小さい頃、誰でも遊んだ記憶があるのではないでしょうか。
ビニール製で、大きな目玉を二つギョロリ付けたあの三角形の洋凧で
す。2030年昔は、駄菓子屋などで200円程あれば簡単に手に入っ
たのですが、最近は、とんと姿を消してしまい、私も“凧揚げ”などという
遊びすら、ずっと忘れていました。そのゲイラカイト、友人の子供に何か
買ってあげようと、ふらり立ち寄ったおもちゃ屋さんで偶然に再会してし
まいました。小さい頃、兄弟で走り回って一生懸命揚げたことや、途中
で糸が切れてしまった凧を自転車で追いかけたこと、電線にひっかかっ
てしまってこってりと怒られたこと (街中では揚げるところが余り無い )、
凧揚げに苦労した思い出が“わっ”と甦りました。季節は冬。お正月に今
度こそは凧を揚げてやろうと、つい買ってしまいました。
今なら上手に出来るだろうか・・・休日に土手やグラウンドを走り回って
も、上手く風を掴めなければ引きずってしまう。どうしてなかなか難しい
ものです。何度か挑戦して、やっとコツを掴んだ今日この頃では、お正
月どころかもう5月。ちょっと予定とは違いますが、来年の年明けには多
少傷んでしまったゲイラカイトを悠々と泳がせることが出来ると、心躍ら
せる初夏なのでした。
2011年04月05日 11:06
花見ならぬ、花“見立て”。
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風に舞う『花吹雪』。
地面に散り敷かれた花びらが『花筵 (むしろ)』なら、川面に浮かび連なるのは、
『花筏 (いかだ)』。先人はなんと美しく雅な言葉を残してくれたものだと思います。
よく、虫の音が、西洋人には雑音に聞こえ、日本人には妙なる音色に聞こえると
いうのが引き合いに出されますが、これは左脳と右脳の働きの違いによるらしく、
地面や川面に散ってしまった桜の花びらも、左脳だけで解釈してしまえば、ただ
の「ゴミ」。最も、近年では 「バイオ・マス」 という言い方もあるらしいのですが。
それを『花筵』と称し、『花筏』と見るのは、単なる右脳解釈だけではないような気
がしますよね。これは、右脳による感覚的解釈と左脳の解釈との複合による、言う
なればハイブリッドな美意識といえるのではないでしょうか。危うく単なるゴミ、ある
いはバイオマスになりかけている「用済みの花びら」を、既存のテーマである筵や
筏に見立てて「新しい美」に昇華させてしまうというのは、独特の繊細さのなせる技
と言えるでしょう。この「見立て」というのは、日本の美意識のかなり重要な部分を
形成すると思います。かなり綿密な美に対するデータベースが、普遍的な共有財産
として存在しないと、この「見立て」は成立せず、そしてこれが成立するというのは、
高いレベルの文化性の証左と言っていいでしょう。
卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、
同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そう
した共有財産がないと成立しません。ところが、最近はこの財産の共有性が薄れ
てきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりします。いず
れにしても、「見立て」というのは、あまり陳腐な使い方をすると「ベタ」になってしま
うのですが、要所々々で上手に使えば、心の琴線に触れるものがあるのです。
自粛、自粛のお花見でも、そういった観点から心静かに楽しんでみるのも良いかも
知れませんね。
2011年03月26日 10:05
日本人の仏性・東北関東大震災
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海外で、被災した日本人の忍耐力の高さが取り沙汰されていましたね。でも、一部では
心ない買い占めや、窃盗もありました・・・日本人の心に訊く、秩序や忍耐力って何なの
でしょう。
私が小学生くらいの頃、母からこんな話を聞いた事を憶えています。
母曰く、『道を歩いていて、道端に水撒きをしている人がいました。不意にその水があ
なたに掛かってしまったら(若しくは掛けられてしまったら)、ーさて、あなたは怒る?』
私は、『もちろん、怒る! もし口に出して怒らなくても、とても気分が悪い。』と答えまし
た。
母は、ニコニコしながら、『そう。例えばね、こう思うことは出来ない? “こんな暑い日に
思いがけず水を掛けて貰った、あぁ良かった。”』
??なんで??
『そんなことは望んでもいないし、服がビショビショに濡れたとして、殊にそんなことを
思う人がいるもんか! もし、そんな風に考える人がいたとしたら馬鹿だ。』
猛反発する私に、母は、どうどうと言わんばかりに笑いながら、『そうね。でも、これは
例えばの話だよ。いつもそんな風に思うことが出来れば、世の中に本当に怒ることや、
腹の立つことなんてそうそう無くなるのかも知れないね。』
私は、釈然としないままそのときは“ふん・・・。”と思い、以来その話をすることはあり
ませんでした。そして、近頃になってその話を思い出して考えるのは、それがいわゆる
“ 人の慈愛 ”だということ。人の心の根底にあるべきものなのだろうという事です。日々、
生きていくなかでこのような心象で、本当にそれを行うのはなかなか難しいことなのか
も知れません。この話は極端でもただことさらに、きれいごとだとも思わないのです。
日本は、古来から仏性を重んじる国です。性善説なるもの、仏教では四端の心と言うそ
うで、他者の苦境を見過ごせない憐れみの心・不正を羞恥する心・謙譲の心・善悪を分
別する心などを善の兆しとし、誰もが幼少より、多かれ少なかれ身の周りの懇親しいも
の(大人や仏閣など)を通じてその片鱗を心に刻み付け、成長してきたのです。表面的に
観れば色々な人がいますが、もっと心の奥底にあるもの、です。
窮地において秩序を守り、じっと我を忍ぶことができる奥ゆかしさを美徳とし、それを実
践することが出来るのは、こういう気持ちの表れなのだと思います。
そして、それこそが“人間らしい”ということなのかも知れません。今頑張っている、そして
前を向こうとしている震災被災地の方々。私だって、こうして心を震わせています。
ひとりではない。
みんなが同じ気持ちで、踏みとどまり繋がっていることに敬愛をこめて。
2011年02月26日 10:03
心が形になる、言葉。
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日本って変わった国だ。いったいどれが母国語なんだい?
スペイン語を話す友人が初めて日本を訪れたとき、こんなことを言っていました。
成程———。街を見渡せばサインや、掲示に氾濫する片仮名、漢語、英語に平仮名。
日本語である筈のカタカナでさえ、もはや英語やヨーロッパ言語を音読表記しただけ
の新型和製語です。この矛盾、私も実は学生の頃から感じていたことでした。だから、
出来るだけ変なカタカナは使わず、元の言語の意味を理解して、外来語は外来語と
してそのまま使うように努めていました。
“どれが日本語なんだい?” 的を射ています。
そう思い俯瞰してみれば、どの国も、その国の言葉を誇らしげに使っています。欧州
列強と言われる国々からその昔に支配を受け、歴史の長い間、植民地化されていた
ことのある国だって、その名残は遺しながらも、『母国語』として、胸を張って言える言
葉を掲げているのです。
失われていく、日本語。先人が培ってきた智慧や、本来の持つ独特の言い回しや、
繊細な美しさが過去のものになってしまわないように、正しい言葉を正しい意味で使
わなければいけません。
で、最後に韻を踏んで日本語に聞こえてしまう、英語。
Sorry, it’s your wish, my dear! →それ言っちゃあ、おしまいだよ!
ん、お後がよろしいようで。