スタッフブログ

掲載情報 / プラスルミノ10月号  2011.09.26更新
大阪市内の情報誌『プラス・ルミノ』10月号に、当院が掲載されました。
今回は “失敗しないクリニック選びと、こだわりポイント”というリポート
で載っています。
微粒子・パウダーフロークリーニングや、ホワイトニングは前々号から据
置きに、今回はワイヤーや金属を全く使用せず、短期間でキレイな歯並
を手に入れられる『スピードセラミック矯正』にスポットを当ててご紹介
しています。ぜひ一度ご覧下さい^^
ところで9月も終わりに近づき、ぐんと秋らしくなってきました。大阪市
でも風の匂いは随分と違います。季節の変わり目、みなさんも体調など
崩されないようにして下さいね☆

タイガーバームの怪。 2011.09.05更新
みなさんは、タイガーバームをご存知ですか。日本でも萬金油の名で、一世を風靡したこの軟膏は、昭和の頃はどの家庭にも、きっとひとつくらいはありました。昨今は、とんとなりを顰め、香港などの中華圏からのお土産でしか見なくなったようです。その成分と使い方はすごく簡単。クリーム状の基材のなかに、とっても強力なメントールが配合されていて、風邪のときなどは湯煎し、その蒸気を吸い込んだり、肌に直接塗布して筋肉痛の緩和や血液循環の改善をしたりと、割と多様に効果があると言われていました。
私も、タイガーバームの小瓶を1つ、旅行に行った友人から貰ったことがあります。その友人が言うには、“タイガーバームの使い道は色々あるけれど、何て言ったって睡魔に襲われたときに一番重宝する。”とのこと。試験前のここ一番のとき、会議中から自動車の運転中まで、バームを瞼の上にさっとひと塗りすればスーッとして目が覚めること受合いと、まるで外郎売りのように魔法の塗り薬の蘊蓄をしてくれました。折しも、私たちは試験が商売の大学生でしたので、そのときは『へぇ。』とばかり、喜んでそのお土産を頂きました。
それから何ヶ月か経った頃でしょうか、待たずともやって参りました。大一番の定期試験です。その頃は確か大学5年生。国家試験に向けて慌ただしくなってくる時期でした。病院実習と筆記試験の板挟みで、神経も程々に擦り減らしながら机に齧り付いていた頃で (でも不思議と辛かったとは思わないんですよね)、 試験日も1週間前を切る頃はパンクしそうな頭に、これでもかと知識を詰め込んでいました。そんな睡眠不足の重なった或る夜のことでした。重い瞼を擦りながらふと思い出したのが、その“タイガーバーム”。1日が24時間じゃ全然足りないと本気で思ってしまうくらい、そして睡眠時間を勉強する時間に充てることができればどんなに効率が良いだろうと常々考えてしまうくらいにあくせくしていました。そこに思い出した、あの“ひとたび塗ればたちどころに目が冴えるらしい”と、外郎売りの文句です。少年にとって、あたかも突然現れた、未来の世界の某猫型ロボットが、いち早くポケットから道具を出してきてくれたときのように小躍りしたのです。
(眼が覚めるのなら・・・。)
早速、一度は引き出しの奥にしまい、埋もれそうになっていたタイガーバームの小瓶を取り出し、空けてみる事にしました。もう色や臭い、そんなお土産としての情緒なんてここにきて、全く関係ありません。この眼さえ覚めればいいのですから。徐に洗面台へ行き、半透明のクリームを人差し指に掬い、薄く右の瞼に塗ってみました。『ふむ・・・。』確かにスーッとしますがなんてことないようです。これで眼なんて覚めるのかなと、不意に心細く思いながら、今度は左の瞼にひと塗り。要領を得た私は、両の瞼にスイスイと塗り込み・・・・・・なにか!?
激痛です!
えも言われぬ激痛なのです!!
どこが痛いのか分かりませんが、最早とても立っていられないほどの激痛が顔面を襲ったのです。『うああぁあぁあ!??』 転げ回ったのでしょうか。何かにぶつかったのでしょうか。もうそんなこと、どうでも良いくらいに痛いのです・・・多分、眼が。例えるなら、映画スキャナーズ宜しく、突然眼球が破裂したならば、こんな感じに我を忘れて卒倒するのでしょうか。悶えながらも理性は“瞼の上のそれを、流水で洗い流せ。”と朧げに訴えます。転げ回った挙げ句のそこは、もう洗面台からほど遠い部屋にいました。それでもヨロヨロと立ち上がり、壁伝いに彷徨いながら必死に洗面台の蛇口を空けますが、手にも力が上手く入りません。(大袈裟じゃなく、本当にそれくらい凄かったのです。)なんとか両瞼を流水で洗い流し、涙まみれにタオルを眼に押し当て数10分倒れこみました。その場に親でも居れば、きっと情けなくて泣くでしょう。
はい。とてもじゃありませんが勉強どころじゃあ、ありません。もしもです、気安く会議中にでもこれを使おうものなら、プレゼン中だろうが、社長さんのお話中だろうが突然転げ回り、辺りは騒然でしょう。ご多分に漏れず解雇です。増してや、自動車の運転中に使おうものなら、カーブだろうがワインディングだろうが関係ありません。悶絶しては勢い余ってきっと彼の川を渡ってしまうかも知れません。それはもう、自分の意志とは全く関係なく。
なんとかその夜は乗り切ったものの、もう初恋叶わず失恋してしまった少女のように、次の日は瞼をポンポンに腫らして講義に行きました。その顔を見るや笑い転げる友人は、全くの人ごとでした。しかも、後から聞いた話では、当の本人はそんなことやったことがないのだとか。
もう10年以上前の話ですが、学生だから許される (いや、許されないかも) ちょっと忘れられない、メントールのきいた苦い思い出です。

『お茶を噛む』 ひと 2011.08.25更新
その昔は、スペインの統治がすすんでいたメキシコ自治州を旅していたときのこと。
何処へ行く途中だったのか、もう忘れてしまいましたが、長い道中、車内の後部座席
で座っていた私がペットボトルのお茶を飲んだのを見て、隣りにちょこんと座っていた
友人がくすくすと笑い出しました。私は、笑われていることに何か気恥ずかしくなって、
いま何を笑ったのかとムキになって訊くと、曰く、「Muerde el té por alguna razón.」
と言うのです。直訳すると『あなたはお茶を噛む。』と言ったところでしょうか。少なか
らず、彼が知っている日本人はみんな大抵 “お茶を噛む” のだそうで。どういうことかと
言うと、何もお茶だけではなく、水やジュースでも同じことで、飲み物を喉に流し込むと
きに、上下の歯がカチカチと当たって音が鳴ることが、液体をさも噛んでから飲み込ん
でいるように感じられて面白いのだそうです。
実は彼の言う、大抵の日本人は・・・と言うフレーズの裏には、アジア人と西洋人に
おける頭蓋骨格と嚥下層(食べ物を喉に押し込むときの、舌や口の周囲筋肉の動き)
に違いがあるのです。通常、食べ物を飲み込むときの口の動きは2パターンに分か
れます。1つは成熟型嚥下といって、飲み込むときに軽く上下の歯が接触し、あごは
わずかに後方にずれます。このとき、舌は高位で口蓋(上あごの内側)に付いて波状
運動をし、唇はこれら一連の動きに影響されません。そして、もう1つは幼児型嚥下
といい、飲み込むときに下あごをやや前に突き出すため、上下の歯は成熟型嚥下と
は対称的に前へ突き出る格好となります。舌は低位で下あごの内で丸まり、唇はす
ぼむ。このとき、上下の歯は不定期に接触します。後者はあご骨の成長と共に、飲み
込むという動作を、唇の筋肉から舌の下部にある筋肉にバトンタッチすることで消失
していくものです。そういう意味から思春期を過ぎて、“ハイ、唾を飲み込んでみて。”
と言ったときに、唇をすぼませなければ、唾液を飲み込めない人は要注意です。幼児
型嚥下が長引き、名残ることで歯並びや発音に大きく影響することがあるからです。
もちろん、私も幼児型嚥下をする訳ではないのですが、西洋人に比べて日本人(大
きくは、モンゴロイドと言われるアジア人全体)はあごが小さく、口のなかの上下的
スペースも低く、狭く出来ています。そのため、食べ物を喉に追いやる作業の流れ
のなかで、舌はとても窮屈な動きを強いられるのです。ですから、嚥下するという作
業のなかで、あごの小さい者は少しかみ合わせを開放するプロセス(要は、口を少し
開く状態)を多くすることで、食べものの塊や流動体を飲み込みやすくしているので
すね。結果、カチカチと上下の歯が接触しやすくなるということです。それが、サラ
サラしたお茶などの飲み物で顕著になり、あたかも “噛んでいる” ように聞こえ、見え
るのではないでしょうか。
考えてみれば、お香なら 『香り・匂いを聞く』 ものなのかも知れません。決してそん
な崇高な意味合いはないのですが、お茶を飲むときはときどき『お茶を噛んでいる』
と、青かった日々とともに思い出すのです。

真夏のサーカス、クーザ!  2011.08.09更新
今年は“クーザ”が大阪・中之島にも来ますね。
8月からちょうど暑い盛りに、たくさん人が来るんだろうなぁ。
私も以前、ラスベガスでシルク・ドゥ・ソレイユの公演を観に
行ったことがあります。目の前で観ると、本当に荘厳で感動
しますよね。手放しで、人間の未知なる能力はこんなにも素
晴らしいものなんだ・・・と。
私は、何故かサーカスと聞くといつも思い出す詩があります。
−みなさんは、こんな詩をご存知でしょうか?
幾時代かがありまして
   茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
   冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
   今夜此処でのひと盛り
   今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁
   そこに一つのブランコだ
   見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
   汚れ木綿の屋蓋 (やね) のもと
   ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
   安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
   咽喉が鳴ります牡蠣殻と
   ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
       屋外は真ッ闇 (くら) 闇 (くら) の闇 (くら)
       夜は劫々と更けまする
       落下傘奴 (らくかがさめ) のノスタルヂアと
       ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
『サーカス』
中原中也 山羊の歌より
ノスタルヂアでも、モダン・コンテンポラリーでも、全部ひっく
るめて夏の暑さを吹き飛ばしてくれそうな、真夏の“クーザ”。
んん!行きたい!

掲載情報 / プラスルミノ8月号 2011.07.31更新
大阪市内の情報誌『プラス・ルミノ』に、当院が掲載されました。
なんとか取材を終え、覧は小さいながら“美”を引き出すスペシャ
リストクリニックというページ最初に載せて頂きました。
(担当して下さった玉垣さん、有難うございます。)
当院が紹介されている8月号では、微粒子・パウダーフロークリ
ーニングとホワイトニングを中心に、今回もちょっとお得な情報
が見れますので、機会があればぜひ一度ご覧下さい!
p.s. スピードセラミック矯正も、おすすめです☆
                     before                                             after

石鹸体ってなんのこと? 2011.07.22更新
実はこれ、サボテンのことなんです。
“仙人掌”または“覇王樹”ともいいます。
好んで自分の生活スペースに近く置くようになったのが、もういつ
からなのかよく憶えていませんが、私はサボテンがとても好きです。
種類にはあまり関係なく選っているのですが、ふと花屋さんの前な
んかを歩いていると、ついサボテンを探してしまいます。その中で
も取分け気に入ったものがあると・・・待てよ、あの部屋のあそこと
あそこにもサボテンが“いる”から・・・もうこれ以上はいっぱいいっぱ
いだよなぁ。ーそう思いながら断念することもしばしば。
そんなサボテンの花言葉は、
『情熱』、『あたたかい心』、『秘めた熱意』、『枯れない愛』などなど。
うん。なかなか、悪くないですね^^
少しの水分でも無駄なく蓄えて、暑い日も寒い日も、いつも凛と張っ
ているイメージ。そんなところに魅力を感じるのでしょうか。
節電、節電の暑い夏。みなさんもひとつ、いかがでしょうか。

インプラント、古今東西。 2011.07.05更新
オッセオ・インテグレーション・システム(チタンが骨と結合するインプラント
歯根部分の様式)が確立されるひと昔前は、サファイアインプラントという
焼結サファイアを顎骨内に埋入して歯根部分とする方法が、国内で一時
流行しました。しかし、これらのマテリアルは骨との結合力がすこぶる弱く、
維持力をアンカー (錨) 型という引っかかりの強い形状に委ねるしかなく、
結果、歯周病や口腔常在菌など要因は様々ですが、インプラントが雑菌な
どに感染した場合にはたちまち骨内で不安定となり、その形状ゆえに撤
去することも容易ではありませんでした。病院口腔外科では、これらの撤
去になかなか苦戦した覚えがあります。
多用されたサファイア製 (透明の部分です。)
では、どんなインプラントが良いのでしょう。生体内で永続的に非自己である
異物が維持されていくのに必要なこと、一言で言えば為害性を排除した親和
性が材料に必要不可欠です。そして、咬合圧に耐えうる強度。もちろん、イン
プラントが炎症を起こしてしまっては、それを取り去るときのことも考えなくては
なりません。ということで、形状。原則的にインプラントの形状は埋入しやすく、
且つ撤去しやすいものでなくてはいけないのです。世代が移り、サファイアや
セラミックにとって変わったチタンを用いた歯根部分。はじめにお話した、オッ
セオ・インテグレーションというシステムはこのチタンという卑金属が骨と結合
する性質を応用したものです。デンタルインプラントメーカーは今や世界で300
社を軽く超えます。その中でも滅菌レベルや骨伝導性、生体力学的見地から
骨に見合ったインプラントを選択しなければなりません。であれば海外シェアの
安価なだけのインプラントが決して良い訳ではないのです。
今だけではなく、ずっと噛める歯を提供したい。
“インプラントセンター”であるからこそ、考えること。
温故知新で、一石を投じていきたいものです。

pee-ka-boo! 2011.06.25更新
高校時代から大学時代、ボクシングをやっていました。
初めは兄の影響ではじめたボクシングでしたが、アマチュアといえど、その掛け
合いがなかなか面白いのです。大学ボクシング部のみならず、ジムにも所属して
いたくらいです。
私は、小さな頃に剣道を習っていて、とても厳しい剣道場に通っていました。終始
の礼から道場の雑巾掛け、気が緩んでいると“ケッパン”といわれる小さな竹刀で
袴の上から思い切りお尻を打たれました。小さいながらに、いつも身が引き締まる
思いで練習をしていた記憶があります。特に厳しかったのは、寒特(冬になると山
や川など寒冷地まで行って竹刀を振る)という“耐寒特訓”という行事でした。でも、
そうしてつらつらと思い返してみると、厳しくても、辛かったという思い出が全くと
いって良い程ないのが、不思議です。頑張って続けた剣道は、有段で大阪府下四
位までいったのですが、受験のため断念して休止—多分、勝負の真剣さや、心の
緊張感がとても好きだったのだろうと思います。
で、なぜ、途中からボクシングになったかと言うと、精神論の根底に共通したもの
があったのだと思います。但し、ルールからスタイルまで、東洋と西洋でそれぞれ
が独自に発展したものですから、全く違う。違うというより寧ろ何もかもが“逆”に近
いのです。まず、軸足と構えが反対。剣道は踏み込むための右足と右手が前、体
の右側面を相手側に向ける形になります。これがボクシングの基本スタイルでは
左足と左手が前、左側面を半身に相手側に向ける形です。利き手(多くの場合で
右手)は後ろになって、ジャブで迎え撃つ方の左手が距離感を測るため前になりま
す。剣道は摺り足ですが、ボクシングでは拳を繰り出すとき以外は、跳ねる動きに
近いフットワーク。線の動きと回転運動。ボクシングを始めた当初はここまで違うも
のなのかと、かなり戸惑いました。(小手とグローブの形なんて本当よく似ているの
に。)でも、仲間や後輩の助けもあって、有意義にボクシングにのめり込む事がで
きました。そして、国家試験も真剣味を帯びてくる大学5年生の秋、実習講義など
で細かな作業をしようとすると小刻みに指先が震えることに気付きました。それも
集中しようとすればする程に震えは大きくなります。
えっ―!?
念のためにすぐに大学病院へかかりました。よくよく話を聞いてみると、それは脳に
よるものではなくて、拳の使い過ぎによる疲労痙攣だと言う事でした。ほっと胸を撫
で下ろしたものの、もうすぐ国家試験・・・実習どころか、大事な治療や手術のときに
指が震えたらと思うと、ボクシングを続けていく事が困難だということに否応を付け
ることができませんでした。なんなく試験を終え、専攻に口腔外科を学び、振り返っ
てみるとあれからもう10年が経ちます。今はこれといって体を動かすことはありませ
んが、またボクシングがしたい―たまにそんな衝動に心駆られるこの頃です。

夢が教えること。 2011.06.10更新
最近、夢をよく見ます。
とても現実感があって、夢の中で “ あ、これは夢だから戻らなくては。”みたいな感覚があるのです。
疲れていると言えばそれきりですが、学問体系に言うところでは、これは明晰夢といって脳が半覚
醒の状態で眠ると起こることだそうです。映画の、インセプションやトゥルーマンショーみたいですね。
私の明晰夢は今に始まったことではなく、思春期を過ぎたあたりから、現実感のある夢を見る事が
しばしばありました。そして、夢の内容は現実にありそうな事を教えてくれたりもするのですから、馬
鹿にできません。
少し前に、仲の良かった大学時代の友人達と、一泊旅行へ行ったときの話なのですが、理性的で
割と色んな学問に通じているTと、どちらかというと大人しく、温厚な性格のK。2人の友人を誘って、
卒業して何年かぶりの再会でした。ひとしきり懐かしい話に花を咲かせたその日の夜、3人では少
し広すぎるくらいの床の間に布団を並べて、私は普段はあまり人に話した事のない夢の話、そして
明晰夢とやらについて物知りのTに聞いてみることにしました。
Tは、何でも無いと言う風に、「それは脳で思考と意識、記憶に関わる前頭葉が海馬と連携して覚
醒していた時、つまり起きてから眠るまでの今日一日の情報を整理するために起こっているだけの
こと云々・・・。」など話しをしてくれました。なるほど、Tらしい答えだと思いながらも、何故か私の心
はぼんやりと納得がいきませんでした。もし、それがただ単純に今日一日の記憶や意識を整理する
ためだけに起こるのだとしたら、あの夢は何だろう。実際に、デジャヴュ(既視感)のように“ あぁ、夢
で見たことはこのことだったのか。”と思い感じる気持ちは何だろう、そんな思いを巡らせていました。
折しも、今まで夢うつつにTと私の話に耳を傾けていたKが突然に沈黙を破り、おもむろに話しだし
たのです。「以前、“夢は現実への大切なメッセージだから、眠る前には枕元にペンとノートを置いて、
寝惚けていても夢で見たことはきっちり書き記しておいた方がいい。それが毎日の重要な手がかり
になる。”ということをうちの姉ちゃんがテレビでみた。」と、いつになく真剣な表情のまま寝返りをうち、
こちらを向きました。普段では、こういったジャンルのことになると殊更、多弁ではない彼のことだけ
に不意を突かれ、ふたりとも低い声で頷いてしまいました。そして私は何より明晰夢や、夢でみる予
知的な可能性を擁護してくれそうな彼の言葉に、少なからず期待したのです。
そんな気持ちを余所に、Kは「俺はね、そんなことをすればかえって眠りが浅くなるから、よせと言っ
たんだけど・・・次の日の夜にはテレビの文句通りに、姉ちゃんは枕元にペンと紙切れを置いて眠っ
たんだ。」と、神妙な顔つきで続けました。
Tと私は、乾いてくる喉に唾気を押し込みながら、まるでちょっと怪談小咄を聞いているような錯覚を
覚えながら、いつも無口なKの声に耳を傾けていました。
「それで・・・朝、何か書いてあったの・・・?」
しびれを切らしたTは、話し終わるのを待たず、布団で半分程まで顔を覆った彼を覗き込みました。
「うん。」 Kは更に重たく続けました。
「勿体ぶるなよ、なんて!なんて書いてあったの!?」
怖いもの見たさ、聞きたさもあったのでしょう。そう言う私の目はもう完全に醒めてしまいました。
私達2人の反応が予想外だったのか、Kは目をくりくりっとさせた後、やっとのことで口を開きました。
「とっ・・・、ところ天。」
「そ、それだけ書いてあって・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
私達2人は、涙目になりそうなKと、もはや会ったこともない彼の姉ちゃんをそれ以上責める気には
なれませんでした。
そして、ただただ夢の謎は深まるばかり・・・です。

ふと思う・・・待て待て、幸せとは。 2011.05.25更新

「幸せは、それぞれの心の物差しでしかはかれない。」

それは、そうでしょう。

でも、だからこそ例えば、無闇に幸せをひけらかすことが、時として人の心の闇を作ることもあるの

です。ああ、良かったね、私もああなりたいな、と思ってくれれば誰もが円満で幸せでしょう。ところ

が、妬みや嫉妬の対象にあの人の幸せを崩してやろう、奪ってやろうと思われてしまうことがある

ということです。それは、当の本人ですらそんな厭なつもりはさらさらないという無自覚な場合です

らあります。でも、心のなかに手放しでは喜べない、同調に拮抗する力、言い方を変えれば人の世

の欲とも、翻ってそれは対峙的な向上心とも言える気持ちが生まれてしまうことがあります。しかし、

私はそれこそが人間なのだとも思います。そして、更に逆説的に言うなら、そんな傲慢さや妬みを

伴うような幸せって、幾ら自分自身が満たされていたとしても、果たして本当の幸せだと言えるの

でしょうか。仮に、そうやって人の妬みや恨みを買ったり、それを切り崩してやろうと思われるような

ものが、揺るぎない幸せなのであれば、人の世の幸せは、なんて菲薄ではかないものなんでしょ

う、と考えてしまいます。財産、地位、名誉、恋人、子供、その一切の変動値にあるものや一定の時

間に限って自分の下にあったもの、他人がはかった肩書きに一喜一憂していては、きっと今後とも

それを失わんが為に、虚勢をずっと張り続けていかなければならないことになるでしょう。

 

もっと分かりやすく言えば、他人に自慢できる程度のこと=本当の幸福ではないと言う事です。

 

中国の淮南子に『人間万事、塞翁が馬』と有名な言葉がありますが、そういった環境では正に禍転

じて福となし、福は転じて禍となるのです。そして大凡、年老いて身体の自由がきかなくなった頃に

“ああ、私は今まで何をしていたんだろう、あんなに健康な体があったのに。”と、訪れる死をぼんや

りと意識して初めて自分を取り巻くものが、ほんの少しの間だけの借りものだったということに気付

くのです。そこに気付くことが出来るだけ、それはそれで幸せな事かも知れません。

 

さて、話を掘り下げていけば、例えばこんな話があります。

『ここに金貨の入った袋がふたつあります。片方の袋には、もう一方の2倍の金貨が入っています。』

ある慈善家があなたの前に現れて、こう言ったとします。

『どちらかひとつを選んでください。それを差し上げましょう。』

あなたは、左の袋を選びました。中には10枚の金貨が入っていました。

『袋を変更することもできますよ。どうしますか?』

左の袋が金貨10枚だったということは、右はその倍の20枚か、半分の5枚のどちらかです。さて、あ

なたはそう言われたとき、右の袋を選び直すでしょうか。ここが、幸せな人か否かの分かれ道です。

いったい幸せな人とは、“ 左の袋を選んでよかったのだ。 ”と思える人のことであり、不幸な人とは、

“ 右を選んだほうがよかったのではないか。 ”と悩み、くよくよと後悔する人のことでしょう。右の袋が

左の倍だったのか、半分だったのか。そんなことはさして重要ではありません。どちらにしろ、多い金

貨が入っているほうの袋を選ぶ確率は2分の1なのです。重要な問題は、金貨を差し出されている

こと自体が幸せだということに気付いているかどうかということです。右の袋を選び直すなら、はじめ

から右を選ぶのと同じことです。そういう人は、もしはじめに右を選んでいたなら、やはり左に変更し

ていたでしょう。どちらを選ぼうかと考えているうちは嬉々としていたのに、金貨10枚という具体的な

数字を示されれば、それがとたんに色褪せて見え、新たな欲が出てきてしまうということです。

 

あれも欲しい、これもしたい、幸せになりたい。

現状の維持ではなくて、更なる上を目指すことは決して悪くない事でしょう。でも、現状に感謝する心

がなければ、どこまでいったとしても得るものなどないのです。幸せは、他人の物差しのみならず自分

自身ではかる何かや、有象無象に依存することで得られるものではないのだと思います。「いま、私は

幸せなんだ。」と思えなければ、その後で、どれだけ望んだものを手に入れたとしても、崖の淵を歩い

ているような不安に悩まされ続けるだけです。

 

果たして、それは“幸せになりたい。”と願うことではなく、もう十分に恵まれている余裕に気付き、ただ、

ひたすら謙虚に感謝の気持ちを持てるかどうか。そう考えてみれば、妬みなど生まれてくる筈もありま

せんね。そして、そこに自然と“幸せ”は集まってくるものなのだと思います。


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