やっぱり犬が好き。
2011.05.11更新
犬が大好きです。
従順だからという単純な理由ではなくて、犬は、いつも私の成長と
あったからなのだろうと思います。保健センターなどの保護擁立に
よって、この頃ではあまり見かけなくなりましたが、私が子供の頃
(30年も前でしょうか) には、往来や公園には野良犬や捨て犬と思
われる雑種犬がよく歩きまわっていました。物心つく頃には、小さい
犬からもう程なく成長してある程度大きくなってしまった犬まで、人
懐っこい彼らと日が暮れるまで遊びました。そして必ずといって良い
程、その犬を家まで連れて帰っては、“返してこい。”と雷を落とされ
ていたものです。半日と一緒に過ごした犬公と惜別の時—そんな
寂しい思いを繰り返しながらも懲りることなく、拾い犬を連れて帰っ
ては“飼いたい”と交渉し続けました。小学生になった或る日、雑種
は雑種なのですが、茶色の毛並み艶のしっかりした子犬を抱えて、
また叱られることを、ぼんやりと考えながら家に帰りました。すると、
母親はもう流石に情けをかけてくれたのか、本当は少しずつ犬にも
興味を持ってくれていたのか“あなたがしっかり世話をする約束が
出来るなら、飼ってもいいよ”と言ってくれたのです。もちろん、夜は
眠れないくらい嬉しかったです。
彼女の名前は『ラック』。幸運を、という意味で母親が名付けてくれ
ました。
それから家族の一員として17年間生きた彼女が死んでしまってか
らは新しい犬を、と偶に探すのですが、本当に賢く人懐っこかった
『ラック』の事を考えると今でもなんだか他の犬を飼うに踏み切れ
ずにいます。そして、大抵気持ちが疲れたりする日、その犬は夢に
出てきます。それは私が心の拠を求めているのか『ラック』が夢枕
に立って応援してくれているのかはわかりませんが、朝、目を覚ま
すと不思議と“あぁ、頑張らなければなぁ。”と思うのです。
5月の空に飛べ、ゲイラカイト!
2011.05.07更新
ゲイラカイト(gayla-kite)を知っていますか?
男の子なら小さい頃、誰でも遊んだ記憶があるのではないでしょうか。
ビニール製で、大きな目玉を二つギョロリ付けたあの三角形の洋凧で
す。2030年昔は、駄菓子屋などで200円程あれば簡単に手に入っ
たのですが、最近は、とんと姿を消してしまい、私も“凧揚げ”などという
遊びすら、ずっと忘れていました。そのゲイラカイト、友人の子供に何か
買ってあげようと、ふらり立ち寄ったおもちゃ屋さんで偶然に再会してし
まいました。小さい頃、兄弟で走り回って一生懸命揚げたことや、途中
で糸が切れてしまった凧を自転車で追いかけたこと、電線にひっかかっ
てしまってこってりと怒られたこと (街中では揚げるところが余り無い )、
凧揚げに苦労した思い出が“わっ”と甦りました。季節は冬。お正月に今
度こそは凧を揚げてやろうと、つい買ってしまいました。
今なら上手に出来るだろうか・・・休日に土手やグラウンドを走り回って
も、上手く風を掴めなければ引きずってしまう。どうしてなかなか難しい
ものです。何度か挑戦して、やっとコツを掴んだ今日この頃では、お正
月どころかもう5月。ちょっと予定とは違いますが、来年の年明けには多
少傷んでしまったゲイラカイトを悠々と泳がせることが出来ると、心躍ら
せる初夏なのでした。
偉い人、そのロジック。
2011.04.21更新
偉い―君が言う偉い人ってなんだ。
肩書きか、それとも地位のことかな?
肩書きで人を並び替える、そんな整理は私にはできない。
「びびるなよ。」と、若い商社マンに言い聞かせながらも、
目上には彼が気付くよりも先にさっと頭を下げて、ニコリ。
『・・・勝負はこれからだ。』
CMの渡辺謙氏、とってもかっこいいですね。
そういえば4月は、フレッシュマンのシーズンでもありますね。
ここ堂島の交差点でも、おろしたてのスーツにぎこちなく身を
包んだ若者が、上司らしき年配の方に連れられて、お昼時に
足早に歩いて行きます。それは早くも、すっかり溶け込んだ様
子で談笑しながらだったり、いかにもと緊張した面持ちで、上
司の後ろに張り付くようにだったり。因みに私は、“ぎこちな過
ぎる白衣”からのスタートでした(笑) でも、スーツがくたびれて
いく度に、社会人としての、自分の立ち位置や距離感を覚え
ていったり、惑わされたりするものですよね。
学生時代までに、自分をつくり上げてきた“何か”。友達や恋人
の影響だったり、はたまた、ずっとなりたくないと思いながらも、
本当はいつの間にか憧れていた大人の背中の残像だったり。
社会人であるということは、そんな“何か”を嘯(うそぶ)いたり、誰
かを陥れたりすることで守るのではなく、冷めてしまいそうにな
る気持ちを一生懸命温めながら、周りと歩幅を合わせていける
ストライドを身につける。そんなことだと思います。
仕事をするにあたって、それが正しいことならば、そこに自分が
真直ぐ向き合っているかどうかということが、最も大切だと考え
ます。真直ぐでいつづける事が出来るならば、きっとそれが目標
に対しても一番の近道になるでしょう。 よしんば、腰を折られる
ようなことがあったとしても、簡単にブレたりしない筈ですから。
道半ば、私もそんな心持ちで、いつも仕事をしているつもりです。
大人になる。
社会人になる。
若さのエネルギーを忍ばせながらも、引くところは引くことので
きる気概を持つ。そして、思う。『勝負はこれからだ。』
Fresh Face!
2011.04.11更新
この春から、メディカに新しいスタッフが2人、加わりました。
まだ緊張が解けないのか、なかなか笑顔も固いのですが ^^
今はあくせくと頑張って、色んなことを覚えていってくれてい
ます。“ 新しく入ったのだから、頑張れ頑張れ!”とただ闇雲
に囃すのではなく、上司は上司として適切な言葉や姿勢、そ
の責任が問われるものだと思っています。
ホームページのトップの写真も新しいメンバーでリニューアル
の予定ですので、乞うご期待。因みにこれは、何故かみんな
笑い過ぎて、NGになった写真 (笑)
花見ならぬ、花“見立て”。
2011.04.05更新
風に舞う『花吹雪』。
地面に散り敷かれた花びらが『花筵 (むしろ)』なら、川面に浮かび連なるのは、
『花筏 (いかだ)』。先人はなんと美しく雅な言葉を残してくれたものだと思います。
よく、虫の音が、西洋人には雑音に聞こえ、日本人には妙なる音色に聞こえると
いうのが引き合いに出されますが、これは左脳と右脳の働きの違いによるらしく、
地面や川面に散ってしまった桜の花びらも、左脳だけで解釈してしまえば、ただ
の「ゴミ」。最も、近年では 「バイオ・マス」 という言い方もあるらしいのですが。
それを『花筵』と称し、『花筏』と見るのは、単なる右脳解釈だけではないような気
がしますよね。これは、右脳による感覚的解釈と左脳の解釈との複合による、言う
なればハイブリッドな美意識といえるのではないでしょうか。危うく単なるゴミ、ある
いはバイオマスになりかけている「用済みの花びら」を、既存のテーマである筵や
筏に見立てて「新しい美」に昇華させてしまうというのは、独特の繊細さのなせる技
と言えるでしょう。この「見立て」というのは、日本の美意識のかなり重要な部分を
形成すると思います。かなり綿密な美に対するデータベースが、普遍的な共有財産
として存在しないと、この「見立て」は成立せず、そしてこれが成立するというのは、
高いレベルの文化性の証左と言っていいでしょう。
卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、
同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そう
した共有財産がないと成立しません。ところが、最近はこの財産の共有性が薄れ
てきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりします。いず
れにしても、「見立て」というのは、あまり陳腐な使い方をすると「ベタ」になってしま
うのですが、要所々々で上手に使えば、心の琴線に触れるものがあるのです。
自粛、自粛のお花見でも、そういった観点から心静かに楽しんでみるのも良いかも
知れませんね。
日本人の仏性・東北関東大震災
2011.03.26更新
海外で、被災した日本人の忍耐力の高さが取り沙汰されていましたね。でも、一部では
心ない買い占めや、窃盗もありました・・・日本人の心に訊く、秩序や忍耐力って何なの
でしょう。
私が小学生くらいの頃、母からこんな話を聞いた事を憶えています。
母曰く、『道を歩いていて、道端に水撒きをしている人がいました。不意にその水があ
なたに掛かってしまったら(若しくは掛けられてしまったら)、ーさて、あなたは怒る?』
私は、『もちろん、怒る! もし口に出して怒らなくても、とても気分が悪い。』と答えまし
た。
母は、ニコニコしながら、『そう。例えばね、こう思うことは出来ない? “こんな暑い日に
思いがけず水を掛けて貰った、あぁ良かった。”』
??なんで??
『そんなことは望んでもいないし、服がビショビショに濡れたとして、殊にそんなことを
思う人がいるもんか! もし、そんな風に考える人がいたとしたら馬鹿だ。』
猛反発する私に、母は、どうどうと言わんばかりに笑いながら、『そうね。でも、これは
例えばの話だよ。いつもそんな風に思うことが出来れば、世の中に本当に怒ることや、
腹の立つことなんてそうそう無くなるのかも知れないね。』
私は、釈然としないままそのときは“ふん・・・。”と思い、以来その話をすることはあり
ませんでした。そして、近頃になってその話を思い出して考えるのは、それがいわゆる
“ 人の慈愛 ”だということ。人の心の根底にあるべきものなのだろうという事です。日々、
生きていくなかでこのような心象で、本当にそれを行うのはなかなか難しいことなのか
も知れません。この話は極端でもただことさらに、きれいごとだとも思わないのです。
日本は、古来から仏性を重んじる国です。性善説なるもの、仏教では四端の心と言うそ
うで、他者の苦境を見過ごせない憐れみの心・不正を羞恥する心・謙譲の心・善悪を分
別する心などを善の兆しとし、誰もが幼少より、多かれ少なかれ身の周りの懇親しいも
の(大人や仏閣など)を通じてその片鱗を心に刻み付け、成長してきたのです。表面的に
観れば色々な人がいますが、もっと心の奥底にあるもの、です。
窮地において秩序を守り、じっと我を忍ぶことができる奥ゆかしさを美徳とし、それを実
践することが出来るのは、こういう気持ちの表れなのだと思います。
そして、それこそが“人間らしい”ということなのかも知れません。今頑張っている、そして
前を向こうとしている震災被災地の方々。私だって、こうして心を震わせています。
ひとりではない。
みんなが同じ気持ちで、踏みとどまり繋がっていることに敬愛をこめて。
壮行会&同窓会
2011.03.10更新
大学院時代の同僚が、この4月からシンガポールへ出向することが決まりました。
そんな流れで、先週末に同僚で壮行会&同窓会を開きました。再会は、実に5年
振りだったのですが、不思議と、私にとってはもっともっと昔のことのように思えま
した。それでも屈託なく昔話をしていると、確かに志同じく、そして少なからずみん
な一生懸命だったんだなと思いました。
また、ゆっくり会いたいです。
震災に寄せて。
2011.03.05更新
未曾有のM9.0という観測史上最大の東北地方太平洋地震。
ここ大阪でも、目眩を覚えるような揺れが暫く続きました。一
閃、頭を過ったのは阪神大震災と記憶に新しいNZ地震との
関連。最悪の事態も想定しない訳にはいかず、速やかにス
タッフとともに一時屋外へ退避しましたが、物が落ちたり、壊
れたりという程の震度ではないようだったので、ひとまずクリ
ニックへ戻ることが出来ました。私には、幸い血縁関係にあ
たる者や、知り合いは東北地方におらず、家族の安全を確認
する程度で済んだのですが、その後、続々と報じられる惨状
には言葉を失いました。
先ず、救援物資を支える為の募金ぐらいしか出来ていませ
んが、多くの方の命が一刻も早く救われることを切に望みま
す。そして一日も早い復興と人々の心の平穏が戻ってくるよ
う、心から祈るばかりです。
週末のイーハトヴ
2011.03.05更新
私たちは、氷砂糖を欲しいくらい持たないでも、きれいに透き通った風を食べ、
桃色の美しい朝の日光を呑むことができます。また私は、畑や森の中で、ひど
いぼろぼろの着物が、いちばん素晴らしいびろうどや羅紗や、宝石入りの着物
に、かわっているのをたびたび見ました。私は、そういうきれいな食べ物や着物
を好きです。
これらの私のお話は、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月明かりから
もらってきたのです。本当に、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかっ
たり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしても
こんな気がして仕方ないのです。本当にもう、どうしてもこんなことがあるようで
仕方ないということを、私はその通り書いたまでです。
これらのなかには、あなたのためになる処もあるでしょうし、ただそれっきりの
処もあるでしょうが、私には、その見分けがよくつきません。何のことだか、訳
のわからないところもあるでしょうが、そんなところは、私にもまた、訳がわから
ないのです。けれども、私は、これらの小さな物語の幾きれかが、おしまい、あ
なたの透き通った本当の食べ物になることを、どんなに願うかわかりません。
私は、小さな頃から宮沢賢治が好きです。
彼の心に映るものは、いつも温かく、透き通って見えたのでしょうか。
そういう風になろうと思ってなる人。そういう風になろうと思わずとも、それが
出来る人。現代社会では心が疲れてしまうことが多くて、透き通った心持ちの
まま生きていくには少し窮屈かも知れない。でも、忘れてはいけない大切なこ
ともたくさんありますよね。
たまには、こんな風に温故知新で、古典文学に触れてみるのも良いかも知れ
ないと思う週末です^^
心が形になる、言葉。
2011.02.26更新
日本って変わった国だ。いったいどれが母国語なんだい?
スペイン語を話す友人が初めて日本を訪れたとき、こんなことを言っていました。
成程———。街を見渡せばサインや、掲示に氾濫する片仮名、漢語、英語に平仮名。
日本語である筈のカタカナでさえ、もはや英語やヨーロッパ言語を音読表記しただけ
の新型和製語です。この矛盾、私も実は学生の頃から感じていたことでした。だから、
出来るだけ変なカタカナは使わず、元の言語の意味を理解して、外来語は外来語と
してそのまま使うように努めていました。
“どれが日本語なんだい?” 的を射ています。
そう思い俯瞰してみれば、どの国も、その国の言葉を誇らしげに使っています。欧州
列強と言われる国々からその昔に支配を受け、歴史の長い間、植民地化されていた
ことのある国だって、その名残は遺しながらも、『母国語』として、胸を張って言える言
葉を掲げているのです。
失われていく、日本語。先人が培ってきた智慧や、本来の持つ独特の言い回しや、
繊細な美しさが過去のものになってしまわないように、正しい言葉を正しい意味で使
わなければいけません。
で、最後に韻を踏んで日本語に聞こえてしまう、英語。
Sorry, it’s your wish, my dear! →それ言っちゃあ、おしまいだよ!
ん、お後がよろしいようで。