56歳の頃、実家のすぐそばに茨条網と高い塀に囲まれた、一風変わった家がありました。
そこには、『福田』という表札を掛けて、白髪で黒縁の眼鏡をかけたおじさんが住んでいたの
ですが、日中夜、滅多に外にでてくることがありませんでした。偶に、おもてにでてくることが
あれば、私たち子供に「なにして遊んでるの?」とか、「へぇ、そんなことできるの?」と熱心に
声を掛けてくれていた不思議な雰囲気のおじさんだったことを憶えています。時には、立った
ままで両手を持ってでんぐり返しを手伝ってくれたり、シャボン玉の吹き方を教えてくれたこと
もありました。彼はとても穏やかな感じで、近所住まいということもあって、子供心に安心して
何かと話しかけていました。私もやがて小学校も中学年に入り、友達もたくさん出来て近所だ
けで遊ばなくなった頃、あの“白髪のおじさん”と出会う機会が少なくなりました。幼児期を脱し、
その存在すらも忘れかけていたとき、母親から初めて彼に、もう一つの名前があることをきき
ました。実はこの人、小説家・司馬 遼太郎氏 だったのです。両親曰く、執筆や病気などで今
はほとんど外に出てくることがないということでした。まだ難しい本など読んでいなかった私は、
それでも「福田さんが、司馬さん? ふん、有名なの?」・・・いま私がその場にいたら口を塞
いで、きゅっとひねってやりたいくらいなのですが。
成長するにつれて『竜馬がゆく』、『国盗り物語』、『世に棲む日日』、そして『21世紀に生きる
君たちへ』、独特で秀逸な彼の作風にあてられる裏腹に、あの幼い頃の記憶を残して以来、
メディアや書籍で見る他は結局、以来彼に会うこともないまま他界してしまいました。
月日は流れ、彼の家とは少し離れた東大阪市にある小阪というところに“司馬 遼太郎記念館”
たるものが建築され、現在、祝平日問わず彼の作品に魅せられた多数のファンの方が訪れて
いるようです。私も幼少期を過ごした東大阪市は、割と昔からの気勢を残したままの、言って
みれば下町といった印象でした。音にも聞こえた文豪、司馬 遼太郎氏 がなぜこの土地を選び、
生活の根を下ろし晩年までを過ごしたのでしょうか。 折しも、そのことについて、生前のインター
ビューではこう答えていました。
『私は、猥雑な土地でなければ棲む気がしない。』
そうかそうか・・・猥雑か・・・わいざつ? ワイザツ??
猥雑:広辞苑
1.ごたごたと入り乱れていること。また、そのさま。
2.みだらで下品なこと。また、そのさま。
・・・そこまであれでもないよ。
で、ちょっとショック受けたり・・・(笑)
今なお、私のなかで司馬 遼太郎氏ではない別人のまま、あの“おじさん”の声と面影が私のなか
で息づいています。優しそうに話しかけてくれたそのとき、どんな眼で、そしてどんな表情で、私と
いう子供を見てくれていたのだろうか——。今思えばこそ、彼に訊いてみたかったことがたくさん、
たくさんあるものです。