風に舞う『花吹雪』。
地面に散り敷かれた花びらが『花筵 (むしろ)』なら、川面に浮かび連なるのは、
『花筏 (いかだ)』。先人はなんと美しく雅な言葉を残してくれたものだと思います。
よく、虫の音が、西洋人には雑音に聞こえ、日本人には妙なる音色に聞こえると
いうのが引き合いに出されますが、これは左脳と右脳の働きの違いによるらしく、
地面や川面に散ってしまった桜の花びらも、左脳だけで解釈してしまえば、ただ
の「ゴミ」。最も、近年では 「バイオ・マス」 という言い方もあるらしいのですが。
それを『花筵』と称し、『花筏』と見るのは、単なる右脳解釈だけではないような気
がしますよね。これは、右脳による感覚的解釈と左脳の解釈との複合による、言う
なればハイブリッドな美意識といえるのではないでしょうか。危うく単なるゴミ、ある
いはバイオマスになりかけている「用済みの花びら」を、既存のテーマである筵や
筏に見立てて「新しい美」に昇華させてしまうというのは、独特の繊細さのなせる技
と言えるでしょう。この「見立て」というのは、日本の美意識のかなり重要な部分を
形成すると思います。かなり綿密な美に対するデータベースが、普遍的な共有財産
として存在しないと、この「見立て」は成立せず、そしてこれが成立するというのは、
高いレベルの文化性の証左と言っていいでしょう。
卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、
同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そう
した共有財産がないと成立しません。ところが、最近はこの財産の共有性が薄れ
てきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりします。いず
れにしても、「見立て」というのは、あまり陳腐な使い方をすると「ベタ」になってしま
うのですが、要所々々で上手に使えば、心の琴線に触れるものがあるのです。
自粛、自粛のお花見でも、そういった観点から心静かに楽しんでみるのも良いかも
知れませんね。