「幸せは、それぞれの心の物差しでしかはかれない。」
それは、そうでしょう。
でも、だからこそ例えば、無闇に幸せをひけらかすことが、時として人の心の闇を作ることもあるの
です。ああ、良かったね、私もああなりたいな、と思ってくれれば誰もが円満で幸せでしょう。ところ
が、妬みや嫉妬の対象にあの人の幸せを崩してやろう、奪ってやろうと思われてしまうことがある
ということです。それは、当の本人ですらそんな厭なつもりはさらさらないという無自覚な場合です
らあります。でも、心のなかに手放しでは喜べない、同調に拮抗する力、言い方を変えれば人の世
の欲とも、翻ってそれは対峙的な向上心とも言える気持ちが生まれてしまうことがあります。しかし、
私はそれこそが人間なのだとも思います。そして、更に逆説的に言うなら、そんな傲慢さや妬みを
伴うような幸せって、幾ら自分自身が満たされていたとしても、果たして本当の幸せだと言えるの
でしょうか。仮に、そうやって人の妬みや恨みを買ったり、それを切り崩してやろうと思われるような
ものが、揺るぎない幸せなのであれば、人の世の幸せは、なんて菲薄ではかないものなんでしょ
う、と考えてしまいます。財産、地位、名誉、恋人、子供、その一切の変動値にあるものや一定の時
間に限って自分の下にあったもの、他人がはかった肩書きに一喜一憂していては、きっと今後とも
それを失わんが為に、虚勢をずっと張り続けていかなければならないことになるでしょう。
もっと分かりやすく言えば、他人に自慢できる程度のこと=本当の幸福ではないと言う事です。
中国の淮南子に『人間万事、塞翁が馬』と有名な言葉がありますが、そういった環境では正に禍転
じて福となし、福は転じて禍となるのです。そして大凡、年老いて身体の自由がきかなくなった頃に
“ああ、私は今まで何をしていたんだろう、あんなに健康な体があったのに。”と、訪れる死をぼんや
りと意識して初めて自分を取り巻くものが、ほんの少しの間だけの借りものだったということに気付
くのです。そこに気付くことが出来るだけ、それはそれで幸せな事かも知れません。
さて、話を掘り下げていけば、例えばこんな話があります。
『ここに金貨の入った袋がふたつあります。片方の袋には、もう一方の2倍の金貨が入っています。』
ある慈善家があなたの前に現れて、こう言ったとします。
『どちらかひとつを選んでください。それを差し上げましょう。』
あなたは、左の袋を選びました。中には10枚の金貨が入っていました。
『袋を変更することもできますよ。どうしますか?』
左の袋が金貨10枚だったということは、右はその倍の20枚か、半分の5枚のどちらかです。さて、あ
なたはそう言われたとき、右の袋を選び直すでしょうか。ここが、幸せな人か否かの分かれ道です。
いったい幸せな人とは、“ 左の袋を選んでよかったのだ。 ”と思える人のことであり、不幸な人とは、
“ 右を選んだほうがよかったのではないか。 ”と悩み、くよくよと後悔する人のことでしょう。右の袋が
左の倍だったのか、半分だったのか。そんなことはさして重要ではありません。どちらにしろ、多い金
貨が入っているほうの袋を選ぶ確率は2分の1なのです。重要な問題は、金貨を差し出されている
こと自体が幸せだということに気付いているかどうかということです。右の袋を選び直すなら、はじめ
から右を選ぶのと同じことです。そういう人は、もしはじめに右を選んでいたなら、やはり左に変更し
ていたでしょう。どちらを選ぼうかと考えているうちは嬉々としていたのに、金貨10枚という具体的な
数字を示されれば、それがとたんに色褪せて見え、新たな欲が出てきてしまうということです。
あれも欲しい、これもしたい、幸せになりたい。
現状の維持ではなくて、更なる上を目指すことは決して悪くない事でしょう。でも、現状に感謝する心
がなければ、どこまでいったとしても得るものなどないのです。幸せは、他人の物差しのみならず自分
自身ではかる何かや、有象無象に依存することで得られるものではないのだと思います。「いま、私は
幸せなんだ。」と思えなければ、その後で、どれだけ望んだものを手に入れたとしても、崖の淵を歩い
ているような不安に悩まされ続けるだけです。
果たして、それは“幸せになりたい。”と願うことではなく、もう十分に恵まれている余裕に気付き、ただ、
ひたすら謙虚に感謝の気持ちを持てるかどうか。そう考えてみれば、妬みなど生まれてくる筈もありま
せんね。そして、そこに自然と“幸せ”は集まってくるものなのだと思います。