みなさんは、タイガーバームをご存知ですか。日本でも萬金油の名で、一世を風靡したこの軟膏は、昭和の頃はどの家庭にも、きっとひとつくらいはありました。昨今は、とんとなりを顰め、香港などの中華圏からのお土産でしか見なくなったようです。その成分と使い方はすごく簡単。クリーム状の基材のなかに、とっても強力なメントールが配合されていて、風邪のときなどは湯煎し、その蒸気を吸い込んだり、肌に直接塗布して筋肉痛の緩和や血液循環の改善をしたりと、割と多様に効果があると言われていました。
私も、タイガーバームの小瓶を1つ、旅行に行った友人から貰ったことがあります。その友人が言うには、“タイガーバームの使い道は色々あるけれど、何て言ったって睡魔に襲われたときに一番重宝する。”とのこと。試験前のここ一番のとき、会議中から自動車の運転中まで、バームを瞼の上にさっとひと塗りすればスーッとして目が覚めること受合いと、まるで外郎売りのように魔法の塗り薬の蘊蓄をしてくれました。折しも、私たちは試験が商売の大学生でしたので、そのときは『へぇ。』とばかり、喜んでそのお土産を頂きました。
それから何ヶ月か経った頃でしょうか、待たずともやって参りました。大一番の定期試験です。その頃は確か大学5年生。国家試験に向けて慌ただしくなってくる時期でした。病院実習と筆記試験の板挟みで、神経も程々に擦り減らしながら机に齧り付いていた頃で (でも不思議と辛かったとは思わないんですよね)、 試験日も1週間前を切る頃はパンクしそうな頭に、これでもかと知識を詰め込んでいました。そんな睡眠不足の重なった或る夜のことでした。重い瞼を擦りながらふと思い出したのが、その“タイガーバーム”。1日が24時間じゃ全然足りないと本気で思ってしまうくらい、そして睡眠時間を勉強する時間に充てることができればどんなに効率が良いだろうと常々考えてしまうくらいにあくせくしていました。そこに思い出した、あの“ひとたび塗ればたちどころに目が冴えるらしい”と、外郎売りの文句です。少年にとって、あたかも突然現れた、未来の世界の某猫型ロボットが、いち早くポケットから道具を出してきてくれたときのように小躍りしたのです。
(眼が覚めるのなら・・・。)
早速、一度は引き出しの奥にしまい、埋もれそうになっていたタイガーバームの小瓶を取り出し、空けてみる事にしました。もう色や臭い、そんなお土産としての情緒なんてここにきて、全く関係ありません。この眼さえ覚めればいいのですから。徐に洗面台へ行き、半透明のクリームを人差し指に掬い、薄く右の瞼に塗ってみました。『ふむ・・・。』確かにスーッとしますがなんてことないようです。これで眼なんて覚めるのかなと、不意に心細く思いながら、今度は左の瞼にひと塗り。要領を得た私は、両の瞼にスイスイと塗り込み・・・・・・なにか!?
激痛です!
えも言われぬ激痛なのです!!
どこが痛いのか分かりませんが、最早とても立っていられないほどの激痛が顔面を襲ったのです。『うああぁあぁあ!??』 転げ回ったのでしょうか。何かにぶつかったのでしょうか。もうそんなこと、どうでも良いくらいに痛いのです・・・多分、眼が。例えるなら、映画スキャナーズ宜しく、突然眼球が破裂したならば、こんな感じに我を忘れて卒倒するのでしょうか。悶えながらも理性は“瞼の上のそれを、流水で洗い流せ。”と朧げに訴えます。転げ回った挙げ句のそこは、もう洗面台からほど遠い部屋にいました。それでもヨロヨロと立ち上がり、壁伝いに彷徨いながら必死に洗面台の蛇口を空けますが、手にも力が上手く入りません。(大袈裟じゃなく、本当にそれくらい凄かったのです。)なんとか両瞼を流水で洗い流し、涙まみれにタオルを眼に押し当て数10分倒れこみました。その場に親でも居れば、きっと情けなくて泣くでしょう。
はい。とてもじゃありませんが勉強どころじゃあ、ありません。もしもです、気安く会議中にでもこれを使おうものなら、プレゼン中だろうが、社長さんのお話中だろうが突然転げ回り、辺りは騒然でしょう。ご多分に漏れず解雇です。増してや、自動車の運転中に使おうものなら、カーブだろうがワインディングだろうが関係ありません。悶絶しては勢い余ってきっと彼の川を渡ってしまうかも知れません。それはもう、自分の意志とは全く関係なく。
なんとかその夜は乗り切ったものの、もう初恋叶わず失恋してしまった少女のように、次の日は瞼をポンポンに腫らして講義に行きました。その顔を見るや笑い転げる友人は、全くの人ごとでした。しかも、後から聞いた話では、当の本人はそんなことやったことがないのだとか。
もう10年以上前の話ですが、学生だから許される (いや、許されないかも) ちょっと忘れられない、メントールのきいた苦い思い出です。