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的は“得る”のか、“射る”のか? 2012.01.26更新
むかし、『的を得る。』、『的を射る。』で疑問に思ったことがあります。話しをしていると、多くのひとが「的を得てるね。」とか、「的を射た話だね。」など、この熟語に、めいめいで統一されていない違和感を感じていました。的を射る・・・? 当を得る・・・? 要領を得る・・・のか?
ということで、皆さんはどちらが正解だと思いますか。
調べていくと、実は、『的を得る。』という比喩的表現は、中国古典にある“正鵠(せいこく)を失する。”から来ているのだそうです。正鵠とは、弓道の的の中心にある黒星のこと。詰まりは、鳥のことで、その正鵠から矢が外れることを“失する。”といい、当たることを“(正鵠を)得る。”というそうです。さらに“得”という字には、元々“当たる”という意味が含まれていて、いつのまにか、正鵠という言葉が“的”に置き換わり、それとともに“得る”が 現代日本語の“射る”になったということです。こうしてみると、得という字に当たるという意味があるのだから「的を得た。」であっても由緒として、強ち間違いではないのですね。
そうなると、答えはどちらも正解。ただ敢えて、教科書的に言えば『的を射る。』ことが芳しいそうです。
これは核心を突く、うまく要点を掴む、という意味で表現される言葉なのですが、少しこの比喩からは話が外れて、的がある、人生において目標があるということは、とても幸せなことだと思います。
もし的がなく、矢を射らんとなれば、矢はてんで方々にとんでいくに違いありません。当たり前なのですが、的があるから鏃をひける。同じことで、もしフルマラソンに42.195 km を走るということに縛りがなくて、延々と走らなければならないルールだとしたら、殆どのひとが4〜5時間もすれば、もうだらだらと歩き出してしまうでしょう。競争の原理もあれ、ゴールという目標があればこそ、身体に気力という鞭が入るのです。
翻して、目標を持たずに生きて行くというほど辛いものはないとも思います。自分が何者なのか、何をすればいいのか理解できないまま歩く道程は、のらりくらりと足取りも重たくなります。但し、目標は規則ではないので。『人間は、なぜこうも自分を縛りたがる動物なのか。』と、ある著名人が言っていました。『時間で区切り、衣服で分け、規則で縛り、もうそれだけでは飽き足らず、仕舞いには信仰を以て、神にまで縛られてしまわなければ安心出来ない性質なのだ。』と。心の自由を奪うほどの的は要らないのです。
だから、何でもいいのです。短距離でもいい、小さくてもいい、目標という的を決めることで、そこに辿りつくまでに、ほんの少しでも気力を使う事が出来たなら、それが自尊心としてまた次の気力を繋ぐ。そして、次はもう少し遠くまで。限りある時間を正しく大切に使うことがどうして、中々難しいのです。
そう考えれば、生命だって限りがあるから、それを愛おしく思い、大切にしたいと思うのでしょうね。

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