『・・・でも、本当の意味で夕暮れと黄昏はまた違うの。内藤君、あなたならそれが分かるんじゃない?』
決して真面目な生徒とは言えなかった私に、不意にそう声をかけたのは少し年配の女性の国語教師でした。私が中学2年生で、14歳の頃。折しも、それは国語の授業中でした。季節は、もうクラス替えをするような冬の終わりで、ぼんやりと窓の外を眺めていた私は、はっとして縦書きで“黄昏”と掠れたチョークで書かれた深緑の黒板と、その先生の顔を交互に見比べました。先生はいつになく真剣な表情で『ね、あなたならわかるでしょう?夕暮れと黄昏、どんな風に違うものなのか。』と言いました。私は“なんで、僕なんだ。”と思いながらも『まあ、なんとなく・・・。』と、勢いのない返事をしてしまいました。忽ち次は『では、何が違うの?』と、訊かれたらどう答えようかと、もじもじとしながら顔を上げると、先生は少し嬉しそうに『その気持ちを大切になさい。』と、それだけ言って、にっこり笑いました。
その授業が終わると、悪戯そうな顔をしながら友達が数人寄ってきます。『おい、それで一体何が違うって言うんだよ。』と私を囲みました。そのとき私は、何と言ったのかもう憶えていないのですが、あまり上手に答えられなかったように思います。友達が言うには、私がぼんやり聞き流していた授業の内容はこうだったそうです。
『黄昏は太陽が傾き始めて山が黄色に染まり始める時間帯を言います。
それに対して夕暮れは太陽が山にかかり、山が朱に染まる時間帯。黄昏については、今は昔、薄暗くなって路往く人の顔が分からなくなってしまったときに、「誰(た)ぞ彼(かれ)=あれは誰だ。」と、言ったことが起源なの。』そして続けて、『でも、本当の意味で夕暮れと黄昏はまた違う・・・。』と言った後、突然、私を指したということでした。
・・・先生、あのとき僕、そんなに黄昏れていましたか?
もし、夕暮れと黄昏の違いが、時間とは別にあるとするならば、それはきっと、その眼に映す者へ、詰まりは心の違いにあるのだと思うのです。一日の終わり、万感に暮れてゆく想いを夕焼けに映せば、それは夕暮れではなく、“黄昏”になるのでしょう。
結局、先生は一度も私の担任になることはありませんでしたが、卒業の日に、何故かこんな言葉を掛けてくれました。『あなたは他の人にない、ちょっとだけ輝く何かを持っている。これからはそれが何なのかを自分で探して、そして磨いていきなさい。これが私から君への、最後に贈る言葉。』
それからは、もうその先生に会うこともないまま二十年が経ちます。今でも黄昏にふと出会ったときは、何かを見つけることができたのか、はたまた、まだ探している途中なのか、自身に問いながら、あの先生の優しい目を思い出します。